今日の「たまサロン」は、こんな風景でした。
「わたし」とは「わたしという感覚」。この「わたしという感覚」が、どのバイブレーションと共に在るかで「人生の質」は変わってくる。運命ではないということ。
「わたし」が「増える減るというバイブレーション」と共に在ると、いわゆる運命を生きることになる。いわゆる運命を生きるとは、産まれてきた意味を知ろうとしたり、自分の個性を知ろうとしたり、「何かを知ろうと探求する」ことに「意味を見出す」ような人生。
ここは人間関係で葛藤し、思考は破壊と再生を繰り返す。この「わたし」を「三次元意識」と呼ぶ。ここはプラスとマイナスが同時に発生する。大丈夫が生まれれば大丈夫じゃないが同時に発生する。そう、これを読んでいる多くの人の意識がここにある。
それが
「わたしという感覚」が、「減らない」というバイブレーションと共に在ると、全く違う感覚が起こる。プラスとマイナスではなく「0:ラブ」が起こる。「0:ラブ」からの思考が起こる。理屈を理解して納得ではなく、納得したからそれにちょうど良い理解が起こる。この感覚は脳の働きとリンクしている。脳は電気尊号が起こり、そののちに言語による理解を起こす。脳の働きからすれば、理解は電気信号の結果に過ぎない。
減らないというバイブレーションと共にある「わたし」は、時間という概念が変化する。時間と並列に並ぶのが「わたし」になる。この感覚にならないと「いまここ」はわからない。「いまここ」は「減らないというバイブレーションと共に在るわたし」でなければ体感できない。
人生や運命の意味を見出そうとしているような意識では「いまここ」は体感できないんだ。私という感覚が増えたときに「いまここみたいなもの」を体感しているだけ。だから「いまここ」を体感できたりできなかったりが起こる。真実の「いまここ」を体感できたなら、その感覚が揺らぐことが無くなる。未来と呼べるいまここがあり、過去と呼べるいまここがあり、そべては「ここ」に有るものだとゆらがなくなる。
不安を同時に生じさせる安心と、安心しかない安心は、全く違うものだとわかるようになる。安心が継続しないのなら、それは「わたし」という感覚が「増えたとき」に感じた「不安定な安心」なので「安心もどき」だと理解できる。大和田菜穂さんが「それとは全く違う自由が起こる」と表現していたことが腑に落ちる。
「減らない」というバイブレーションと共に在る「わたし」
ここを「5次元意識」と呼んでいいだろう
ここは全く違う「生きている」を体験できるだろう
この自分は、時間(人生や運命)と並列に並ぶ自分なので、いわゆる自分をどこかで感じている自分になる。保江先生はこの部分を「気ぐるみの部分」と表現している。だから「気ぐるみが嫌いと言ってるんだもの、その人避けるの仕方ないじゃん!」という「気楽な感覚」が生じる。責任を感じるという解釈が、こことそこでは全く違う感覚になる。
最後に
減らないというバイブレーションと共に在る「わたし:5次元意識」と、増える減るというバイブレーションと共に在る「誰か:別の私:三次元意識」がつながると起こるバイブレーションを「愛」と呼んでもいいだろう。「安心・癒し・裏切られない・素直になれた・やることが見えた・身体が整う」が起こる。
だから「愛」は行為ではなく「状態」だと、
道が開いた人たちは口をそろえるのだろう。