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矢作先生:古事記はメッセージを終えて

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17日は矢作先生の「古事記へメッセージ」という講演をサポートさせていただきました。日比谷図書館に向かう途中、電車の中でばったり。そこで今日はどういう流れにしますか?とお話して「ディスカッション」にすることが決まりました。講師と会場が「並列」になる空間。この形はこれからのスタイルではないかと感じました。

 

 

「皇室も国民も平ら。平らで在り、それぞれの役割がある。大切な”それ”は、決して上下により働いているものではない。」矢作先生が伝えようとしていたメッセージをこのように受け取りました。

 

 

減るという場所に自分があるから、上下から見てしまう。減らないう場所に居る。これは理屈ではなくバイブレーション。このバイブレーションを感じている自分は裏切らなくなる。好きも嫌いも飛び越えて「今日もあなたを裏切りません」と宣言できる。お伊勢さんや皇室には「このような場」が永遠として存在している。そんなことを想う今日でした。※裏切らないとは、誰かや何かを感じて減らないということです。

 

 

減らない場所に居ると、正しいとか間違っているとか、ハートが開いているとかいないとか、そういう判断は薄くなります。判断ではなく、感謝とか充実が溢れてきます。肉体と共に在るとき、自分という意識は減ることが普通なのでしょう。減るという感覚があるから「減らないという場所」の味わいがある。

 

減らないを味わえる豊かさ。これも生きていることならではの充実かもしれません。12月15日は並木さんも加わりディスカッション形式の講演が行われます。お時間の都合がつく方はどうぞお越しください。講師と会場が並列になる心地良さを体験しに来てください。

 

矢作先生、ともに居て下さり 本当にありがとうございます


減らないというバイブレーション

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こちらに居る自分は「増える減るというバイブレーション」で創造されている。あちらに居る自分は「減らない」というバイブレーションで創造されている。この条件は皆一様である。

 

 

減らない世界に楽しいは無い。増える減るの世界だから苦楽がある。コンビネーションというか、多彩な変化が創造される。

 

 

増える減るの世界で「ステキ」に生きている人は、「減らない」のバイブレーションで「こちら」を生きている。「あちら」を使い「こちら」に居る。

 

 

師匠もそうだもの。ほんと感謝だよ。

 

師匠には、「こちら」は着ぐるみであり自分ではないという感覚が明確にあるらしい。かなり小さいころから。知識でこれを知っている人は多いと思うけど、自分という真ん中に在るバイブレーションが「減らない」の状態にないと、これが知識だけになるから、行ったり来たりになるんだよね。

神性、仏性、現実、とは?

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増える減るという世界だから時間は存在する

 

減らない世界に時間は存在しない

 

無限とは、時間が存在しないことかもしれない

 

増える減るの世界で、減らないを生きると現れるモノを

 

人は、神性とか仏性と呼ぶのかもしれない

 

自分という感覚が減らない。この文字が腑に落ちる人は、現実から解放されていると思う。もしくわ、その手前に居る。

 

 

現実とは、増える減るの感覚を言うのだろう。だから世界とは「感覚」と言ってよいかもしれない。自分という感覚が世界。

 

 

「減らない」という場所に居る自分は極めてシンプルになる。たぶん未来人は極めてシンプルな思考になり「自他を淘汰」したのだろう。自他を淘汰すると極めて少数のコロニーになると予測できる。顔とか姿とか気にしなくなる。

 

 

ファッションは「増える減るの世界=ここ」にしか存在しないかもしれない。概念の違いに反応するのも「ここ」だけかもしれない。

 

 

「ここ」に居ながら「あちら」を生きる。「あちら」に居る自分で「こちら」を生きる。そこには無限と呼べる「フラット」が生まれる。フラットでありながら喜怒哀楽という刹那を生きる。解放とは、そういおうことのように思えるようになった。

感覚はとても平面的なものに見えた

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人生はつまるところ「自分という感覚」。こう見えてくると実に刹那だ。美しいと感じた瞬間は美しいものとなるのに、その直後にアクシデントが起こり、酷いと認識すると立ちどころに酷いものになる。人生は、自分という感覚が瞬間瞬間創造しているホログラム。自分という感覚がホログラフィ。

 

 

感覚は、かなり平面的なものかもしれない。

 

 

それが肉体という立体に投影されると露骨な感覚になる。「リアル」ってやつはホログラムであり、実体ではないかもね。

時間とは、極めてヒューマンなもの

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いまここ しかない

 

精神性が語られるとき、良く使われる表現です

 

でも「いまここ」は、「時間は有る」と認識した意識状態では絶対に理解できないと「感覚」しました。この感覚はとても新鮮でした。自分という感覚が「増える減る」を示しているときは、「時間の有る世界に居る自分」を「自分だと認識」しているので、「いまここ」を実感することは無理でしょう。

 

自分は減らないんです

だって「それ」のホログラムだから

 

世界も減らないんです

世界も「それ」のホログラムだから

 

ホログラム:平面に描かれたホログラフィ(実態である線)が、空間に立体投影されたもの

ーーー

立体投影された世界には「時間が有る」

時間が有るところには「増える減るの感覚」が有る

自分という意識に「増える減るの感覚」が有ると、時間という感覚を外すことができない

時間という感覚を外せないと「運命という概念」に縛られることになる

運命という概念に縛られているから「理屈は理由」を執拗に求める

ーーー

こういった「仕組み」が見えました

今日は たまサロン このへんを語ります

 

保江先生の横浜宇宙学の模様です

 

今日のたまサロン

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今日の「たまサロン」は、こんな風景でした。

 

「わたし」とは「わたしという感覚」。この「わたしという感覚」が、どのバイブレーションと共に在るかで「人生の質」は変わってくる。運命ではないということ。

 

 

「わたし」が「増える減るというバイブレーション」と共に在ると、いわゆる運命を生きることになる。いわゆる運命を生きるとは、産まれてきた意味を知ろうとしたり、自分の個性を知ろうとしたり、「何かを知ろうと探求する」ことに「意味を見出す」ような人生。

 

ここは人間関係で葛藤し、思考は破壊と再生を繰り返す。この「わたし」を「三次元意識」と呼ぶ。ここはプラスとマイナスが同時に発生する。大丈夫が生まれれば大丈夫じゃないが同時に発生する。そう、これを読んでいる多くの人の意識がここにある。

 

 

それが

 

「わたしという感覚」が、「減らない」というバイブレーションと共に在ると、全く違う感覚が起こる。プラスとマイナスではなく「0:ラブ」が起こる。「0:ラブ」からの思考が起こる。理屈を理解して納得ではなく、納得したからそれにちょうど良い理解が起こる。この感覚は脳の働きとリンクしている。脳は電気尊号が起こり、そののちに言語による理解を起こす。脳の働きからすれば、理解は電気信号の結果に過ぎない。

 

減らないというバイブレーションと共にある「わたし」は、時間という概念が変化する。時間と並列に並ぶのが「わたし」になる。この感覚にならないと「いまここ」はわからない。「いまここ」は「減らないというバイブレーションと共に在るわたし」でなければ体感できない。

 

人生や運命の意味を見出そうとしているような意識では「いまここ」は体感できないんだ。私という感覚が増えたときに「いまここみたいなもの」を体感しているだけ。だから「いまここ」を体感できたりできなかったりが起こる。真実の「いまここ」を体感できたなら、その感覚が揺らぐことが無くなる。未来と呼べるいまここがあり、過去と呼べるいまここがあり、そべては「ここ」に有るものだとゆらがなくなる。

 

不安を同時に生じさせる安心と、安心しかない安心は、全く違うものだとわかるようになる。安心が継続しないのなら、それは「わたし」という感覚が「増えたとき」に感じた「不安定な安心」なので「安心もどき」だと理解できる。大和田菜穂さんが「それとは全く違う自由が起こる」と表現していたことが腑に落ちる。

 

 

「減らない」というバイブレーションと共に在る「わたし」

ここを「5次元意識」と呼んでいいだろう

ここは全く違う「生きている」を体験できるだろう

 

 

この自分は、時間(人生や運命)と並列に並ぶ自分なので、いわゆる自分をどこかで感じている自分になる。保江先生はこの部分を「気ぐるみの部分」と表現している。だから「気ぐるみが嫌いと言ってるんだもの、その人避けるの仕方ないじゃん!」という「気楽な感覚」が生じる。責任を感じるという解釈が、こことそこでは全く違う感覚になる。

 

最後に

 

減らないというバイブレーションと共に在る「わたし:5次元意識」と、増える減るというバイブレーションと共に在る「誰か:別の私:三次元意識」がつながると起こるバイブレーションを「愛」と呼んでもいいだろう。「安心・癒し・裏切られない・素直になれた・やることが見えた・身体が整う」が起こる。

 

 

だから「愛」は行為ではなく「状態」だと、

道が開いた人たちは口をそろえるのだろう。

人生の質はシンプルに「二択」から生じている

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私たちは、ふたつの世界にまたがり生きている。増える減るという生涯答えの見えない世界と、減らないという答えしか見えない世界、この二つの世界にまたがり生きている。

 

人生の質はシンプルに「二択」から生じている

 

神と呼べる存在が有るとするなら、絶対の減らないを生じさせている「意識」かもしれない。そういう意識が、未だ増える減るを脱ぎ棄てられない「人」に干渉している。寄り添ってくれている。だからどんな状況でも、簡単には絶望しない。どこかに希望を持ち続けられるんだ。

 

神と呼べるようなものと同じことを、この地上で行う

増える減るの意識にそっと寄り添い続ける

減らないという場所に気がつく瞬間を、そっと待つ

 

なんと ゆたかな人生で あることだろう。感謝が湧く。希望が湧く。勇気が湧く。すべてが愛であることが実感できる。この場所に在ることのゆたかさを伝えて行きたい。神と呼べるようなものがしてくれていることを、この地上で行いたい。傲慢ではあるが、とても暖かな欲望だ。

 

ハレルヤ

12月15日オープンディスカッション

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講演者と会場が並列になるオープンディスカッション。昨日も矢作先生とお会いして、良い空間になればいいねとお話できたところです。

 

霊性・愛・あちらとこちら・こころ、などを切り口として行われる講演になると思われます。生きていることの実感を確かなものにできるかもしれない可能性があります。

 

 

与えることの素晴らしさを理解しているのに後退してしまう。すべては完璧だと理解しているのに後退してしまう。頭ではわかっているのに、感覚が後退してしまう。こういった理屈では解決できない「感覚の問題」に対して、答えが出るかもしれません。その可能性があります。

 

 

三人がそろって講師になる機会はなかなかありません。席にはまだ余裕がありますので、ピンと来た方は参加して下さい。基本、事前振り込みの参加となりますが、当日にならなければどうしてもわからない場合はその旨をメールにてお伝えください。当日参加として受付ます。よろしくお願いします。感謝します。席が余るのはもったいないです。


映画「ツナグ」けっこう前に描いた記事

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今日は何にもしない日

≪ツナグ≫という映画を見ました

 

死後わたしたちは

わたしたちと認識できているモノを手放します

 

この世に存在できなくなった仮の自我たちが

手放す前にもう一度会っておきたかった人に会う

こんな奇跡を映画にしたものです

 

愛し合うって

仮の自我があるときしか体験できません

 

多くの人が自分と認識しているものが≪仮の自我≫です

 

愛したことも、憎んだことも、

希望に満ちたことも、絶望に落ちたときのことも、

そのすべてが愛おしく思えたとき

仮の自我は成仏します

 

いとおしむ

 

これは「愛したこと、愛されたことを、惜しむ」だってわかりました

この映画の中にもありますが

 

幽霊とは、思い出の結晶です

 

仮の自我で積み重ねた月日をいとおしむ思い出の結晶

 

それが幽霊です

 

その姿が醜かろうと、そこにあるものは思い出です

だからこの声しかかけません

 

だいじょうぶだよ

わかるから

 

相手に向けている想いは、自分に向けている想い

これがリアルに感じられて、わたしは愛を知りました

 

それが幽霊でも、人間でも、天使でも、怨霊でも、

そこに向けている想いは、自分に向けている想いなのだから

愛でありたいと思います

 

いい映画でした☁

今日の稽古で腑に落ちたこと

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今日の稽古で、はっきりしたこと。ちなみにこのお方、結構有名な精神科のドクター。

 

 

「意思の疎通」

これがどこで起きているかで「人生の質」は変化する

 

どう言うことかというと、こういうこと。近藤隆さんという人が居るとします。多くの人はこの人を「近藤隆さん」と認識します。これは「わたしが居て、あなたが居る」と判断している「意識領域」で意思の疎通を図っている「結果」です。この領域での意思の疎通を「三次元意識」と言います。三次元意識とは「増える減るという感覚に自分を感じている意識」です。「あなた」と認識した場所に意思の疎通を図る状態です。

 

 

この三次元意識が過ごす「人生と呼べる場所」は、車で例えるなら「ブレーキとアクセルを同時に踏まなければ車を進ますことのできない、非常に厄介で面倒な場所」です。

 

 

想像して下さい、

ブレーキとアクセルを同時に踏んで車を運転することを。

 

 

想像を絶する緊張の連続です。これが多くの人が体感している「人生の質」です。「減らない」という感覚に自分を感じられるようになった「わたし」は、近藤隆さんをこのように感じています。

 

 

みんなが、近藤隆さんと認識している「これ」

 

 

みんなが近藤隆さんと認識している「これ」と、みんなが吉野太と認識している「これ」が、意思の疎通を図っている。こういう認識が、今日の稽古で腑に落ちました。この認識が腑に落ちるとアクセルとブレーキを好きな時に選択して踏めます。かなりリラックスして車の運転ができます。

 

 

車とは「自分と感じている感覚」です。

 

 

多くの人はブレーキとアクセルを同時に踏んで「自分と感じている感覚=車」を進ませるしかない。でも「目覚める」と、好きなようにブレーキとアクセルを選択できる。文字にすると、ちょっとめんどくさい言い回しになりますが、「目覚める」とはこんな感じではないでしょうか。目覚めた状態を「五次元意識」などと呼ぶことがあります。

 

 

三次元意識のままでは、いくら知識・情報・メソッド・経験値を積み上げても「開放」は起きないんです。まあ「増えた」と感じたときに「開放されたような感覚」にはなりますが、それは「開放」ではないので、また落ちます。「答え探し・理由探し・成長探し・ブループリント探し」などと表現できる「永久の探究」を、三次元意識は続けるしかないのです。三次元意識に解放は起きないのです。

 

 

「これ」は「これ」と意思の疎通をする

「これ」と「これ」に、あなたという認識は出てこない

「これ」とは「空・絶対調和・無我」などとも呼ばれている

 

 

菜穂さんは「これ」を「それ」と表現していました。ここに描いたことが「なんとなくわかる人」は、12/15に来ると、この手の感覚がはっきりする可能性が在ります。人生の質を、本当の意味で変えることができます。

一年前に描いた記事

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一年前に「同じこと」を言っていた。でも「質」が違う。質とはバイブレーション。大事なのはバイブレーション、語る内容よりもバイブレーション。バイブレーションとは「聴覚では認識できない音」みたいなもの。それを「ゆらぎ」と呼んでいいかも。

ーーー

全て…これはエネルギーで、あなたとか私とか物体じゃないとわかった。

 

全て…と呼べるエネルギーが、ある引力により塊になる。塊になると個別の周波数を出すようになり、あたかも違うモノのように存在していく。

 

全て…と呼べるエネルギーが「空」なら、ある引力が「色」。色は空が変容したモノ、だから色と空は同一。世界は個別の集合体に見えるだけで、同一のモノ。

 

このときわかった

 

思考や判断には「始まり」がある。この「始まり」が囲いの中では、行き着く場所も囲いの中だ。「始まり」を変えないと…何も変わらない。

 

この「始まり」を「わたし」と認識してるんだ。だから「わたし」という場所に変化が起きなければ、人生は何も動かないとハッキリした。

プリミさん・保江先生・王の間

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昨夜はプリミさんと保江先生の王の間コラボだった。表面的にはでこぼこトークだったけど、「それ」になると、ちゃんとシンプルにコラボしてる。12/15からプリミさんはエジプトに行くから、また帰ってきたらコラボかもね。

 

 

久しぶりにプリミさんの隣に立って感じたのは「次元をまたぐ上昇気流」だった。ここも「減らない場所」だ。今すぐにでも地球から出て行きたいともプリミさん言ってたね。まあ「ここ」は「戦い止めない場所」だし、ちょっと嫌だよね。

 

 

自分(私)と感じている場所

それがそのまま人生の質となっている

 

昨夜はこれを再確認できた。どう考えるか?とかじゃなくて、「私と感じているモノを、どこに感じてるの?」が変容の出発点かな。300m上空からしか世界を眺められない人と、30000m上空から世界を眺められる人とでは、考え方・感じ方の基盤が違ってくる。ここが違ってくるから「行動・言動・判断」も変わる。次元が変わるって、こういう例えができるかな。

 

 

次元転移って「自分と感じている場所が転移する」だと理解してる。

 

 

だから「私」が変わる。

 

この変化が起きれば、世界の見え方が変わる。見え方変わるんだもの人生の質は変わるよね。人生は「私という感覚が起こす認識」だもの。並木さんの言う「バイブレーションを変える」って、ここでいう次元転移のことだと思うよ。

 

 

ぼくは「案内役」という場所が、いまは好み。あちらに見えますのが保江先生でございます♪ こちらがプリミ様♪ 矢作先生♪ 並木さん♪ なんてね^^ いつもありがとうございます♪

人生とは?現実とは?「わたし」という感覚なんだよ

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エジプトに行った時の写真 35歳だったかな。このころは今の感覚を全く理解していない。理解はしてなかったんだろうけど感じてたんだろうね。それがようやく「理解」に変化した。そして「理解の幕開け」とも呼べる12/15を迎える。

 

 

わたし

この感覚が動かないと動かない

 

 

これが人生だったなんて、まあ見事ななぞなぞだよね。釈迦先輩は「全ては内にある」と言っていたそうだけど、ほんとにそうだよ。脳科学などはそれを肯定してるよね。

 

 

だって「わたし」が認識したことが

現実であり人生なんだから。

 

 

「わたし」という感覚が、美しいと認識しなければ、美しいは現実にならないんだもの。「わたし」という感覚の奥底にある「本音」が現実であり人生なんだ。だから「わたし」という感覚が

 

 

どこにあるの?

 

 

これがそのまま現実になってるんだよ。

 

 

そういう意味では認識を変えにくいモノが在る、それが「痛み」。でも「ここ」から眺めると、その痛みがあるから「肉体との連携」を保っていられるみたいだってわかる。肉体との連携は≪不自由を知るためには欠かせない≫からね。

 

 

高次元意識が、不自由を知るために

肉体という気ぐるみを着て、高次の記憶を消し「地」に降りた

そこで不完全・不自由という「新しい宇宙」を体験している

 

 

こんな解釈も「ここ」に居ると腑に落ちる。いわゆるスピリチュアルが怪しく見えるのは、「ここ」に居ないのにこれらを語るからだと思う。スーパーマンの衣装を着て侯爵たれて、ビルから飛び立とうとしている人は警察に捕まるんだよね。少し前までのぼくも、この場所に近かったと思う。

 

 

でも幕が開いた。始まった。

 

 

12/15では「ここ」から三人で、バイブレーションをお届けします。あなたが「わたし」と感じている感覚を次元上昇させます。楽しみにしてください。12月27日夜も麻布で「分離と統合の教室:自分という感覚を移そうよ!」を行うことになりました。

カールロジャースさんの言葉

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カウンセリングの神様「カール・ロジャース」がこんなことをいっている。久しぶりに読み返して、ほんとにそうだと納得している。納得の深さが違う。「わたし」、この感覚が以前とは違う場所に在るからだろう。

2016/12/7


「私は、自分がグループのファシリテーターやセラピストとしてベストの状態にある時、そこに、これまで論じてきたのとは別の、もう1つの特質があることを発見した。


私がみずからのうちなる直観的な自己の最も近くにいる時、私がみずからの未知なるものに触れている時、そして、私がするどんなことでも癒しに満ちているように思えるのである。その時、ただ私のプレゼンス(presence)そのものがひとを解放し援助的に働く。


この経験を強めるために
私ができることは何もない。


けれども、私がリラックスして、私の超越的な核心の近くにいることができる時、私は人との関係において、おそらく奇妙かつ衝動的な仕方で振る舞う。


合理的に正当化することのできない仕方、私の思考過程とはまったく関係ないの仕方で。そして、この奇妙な振る舞いは、なぜだか後になって正しかったのだとわかる。その時、私のうちなる魂が腕を伸ばし、他者のうちなる魂に触れたように思える。


私たちの関係はそれ自体を越えて、より大きな何ものかの一部となる。深い成長と癒しとエネルギーとが、そこにはある」(Rogers,1986)。

自然治癒力の幅

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わたしという感覚は「そういう場所」と呼んでもいい。そういう場所が、肉体という場所と連動しているとき「プラスとマイナスの世界」に縛られるのだろう。「ここ」に居ると、「自分と呼べる感覚」が、そういう仕組みに見えてくる。

 

 

自分という感覚を移す

 

 

これに気がついた人が「悟り」を開き、瞑想や修行・各種メソッドを開発したように見える。自然治癒力という観点から眺めても、「ここ」に居る「わたし」が肉体に創りだす自然治癒力は、≪幅≫が違う。「ここ」に居ることが、そのままヒーラーということが見えてくる。

 

 

「ここ」は、ぶれない

 

 

だってプラスとマイナスが「わたし」に干渉しないから。干渉しても、すぐに薄まるから。並木さんは消えちゃうんだろうと推察できる。釈迦先輩はこのことも「色即是空 空即是色」と表現していたように思える。「仮有:けう」という意識状態のことだ。


ヒーリングとは?

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ヒーリングとは行為ではなく現象。

 

 

今まで自分だと感じていた感覚が、不自由や不完全を体験するために創られた乗り物だとわかる。この不自由なくしてコミュニケーションは存在しない。相手を相手と認識しなければ、いわゆるコミュニケーションは存在しない。

 

 

大日如来は、いわゆるコミュニケーションをしない。それは絶対と呼べる場所に自分を認識しているからだ。絶対と絶対が呼応するのが「あちら」のコミュニケーション。絶対と絶対は、プラスもマイナスも生じないから、気にかけるとか存在しない。

 

 

絶対が、相手の絶対を通して不自由に干渉する

それは行為ではない、「現象」でしかない

 

 

「ここ」に時間は存在しない。時間が存在しない場所を「いまここ」という。だから、時間が在ると認識した状態で「いまここ」を探求することは、答えのない知恵の輪に取り組んでいるようなものだ。始まりからして「NO」なのだ。

阿部さんのブログ:海とひとしずく

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阿部さんのブログ「りーら」はこちらです

 

余談ですが、実感した後も、いままでと同じように起きることが起きていきます。

あいかわらず様々な思考や感情も去来します。

ただ、それらの受け止め方に深刻さがありません。

ーーー

ほんとうにそうです。共感します。

海であったときは絶対を崩せなかったが

ひとしずくになったら絶対を崩せるようになった

絶対という宇宙が生み出した新しい宇宙

それが「不完全・不自由」

こんな捉え方も産まれる最近です

人生の質は二択

増える減るの感覚に自分を見てしまうのか?

増えることも減ることも無い感覚に自分を見るのか?

「わたし」と感じている場所はどちらにあるの?

その解釈・感じ方は、どちらから産まれたもの?

菜穂さんが「時間は無いことは明らか!」と表現していましたが

増えることも減ることも無い「感覚」に自分を感じていると

時間は、不完全不自由を形成できる新しい宇宙での概念に過ぎないと見えます

いまここは、こちらの宇宙には存在しない

海である側に自分を感じなければ体感できないモノ

時間は無いと腑に落ちたときに出会えるモノ

そんな最近です

霊性・神性という中心は高台には無い

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いろんな価値観が在る。だから面白い。でも、遺恨が残るように争うことは面白くない。こういう感覚で居たいから「減らない場所」に自分を感じている。

 

 

スピリチュアルな単語を使っていても、プラスマイナスが同時に生じてしまう感覚では、霊性や神性を理解することはできないだろう。そのように思える。

 

 

拡がりには中心が必要なのかもしれない。ただその中心が霊性や神性として存在するとき、高台になることは無いと思う。平面としての拡がりとなり、平面としての中心。ただの中心というパーツになる。

 

 

ぼくが感じるステキな人は「ここ」に居る。この拡がりが拡がれば、遺恨を残すような争いは消えてゆくと思える。体験としての争い。これは文明のひとつであり問題ないと思える。

 

 

ここは「新しい宇宙」。違う価値観という感覚が芽生える宇宙。違う存在だと感じることのできる宇宙。この「新しい宇宙」で、「愛」をどのような姿に形成するのか?それぞれがそれぞれに試している。そんな景色にさえ見える。

 

 

それぞれと、表現できる宇宙

 

 

先ずは「減らない」。ここに自分を感じると「あちら」を思い出し、愛を形成しやすくなるかもと、ぼくという場所からは提唱する。本当に今年はステキな人と共に居られた。この場を借りてなんとなく、感謝します。いつもありがとうございます。

 

席がまだあるので「当日受付」もすることにしました

 

メールに「当日受付として登録します」と明記して下さい

 

当日 会場にて参加費を納めて下さい

 

領収書が必要な方はメールに

「◎◎で領収書をお願いします」と明記して下さい

ーーー

ここからは東京道場の門人さん限定のお知らせです

 

12/30に有志による忘年会を企画しています

 

その前に参加できる人は某神宮で正式参拝を行います

 

参加したい人は「吉野・山口・宮地」まで連絡して下さい

 

某神宮での正式参拝は、カジュアルすぎる服装は断られます

 

参加される方はそのことを忘れないでください

気がついた人から始める

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今日、クライアントさんに話していたことは、とても理解しやすかった。それを描いておきます。この三人とも、共有できるところが多いと思います。

 

ーーー

 

私とは、増えることも減ることもない絶対不変と呼べるモノ。肉体を持つと「私」は、そのことを忘れてしまう。忘れてしまうので自分が、増えたり減ったりするものだと思い込んでしまう。だから常に、減ることへの不安や増えることへの探求に、自分という意識を持って行かれてしまう。

 

 

この増えたり減ったりしているという「私の勘違い」が、無意識と呼ばれているような「向こう側の意識」のぶれを産みだす。無意識と呼ばれている場所がぶれると、免疫性や治癒力と呼ばれている場所の働きが減退する。結果として、肉体や精神に病の元となるような状態を創りだす。

 

 

すべては勘違いから起きている

 

 

この無意識と呼ばれている「向こう側の意識」が修正されないまま、自分を前向きにしようと知識や情報を集めることで、更なる困惑を創りだしていることが多いようだ。足場が不安定な場所でトレーニングをするより、安定した場所でトレーニングすることの方が「病」には良い。

 

 

そういう意味では修行や忍耐は、この向こう側の意識が不安定なまま、こちらの意識で無理やり安定に持って行く状態を示すのだろう。この状態が創りだす「強さ」は、嫌が追うなしに格差を創る。特筆したカリスマ性など、中心が高台になる集まりを創造する。これがいままでの「世界」であったのかもしれない。

 

 

それがアセンションなどと呼ばれているように「変容」を迎えたようだ。中心が高台になる世界ではなく、中心から平たく拡がる世界に変容するようだ。これにより遺恨を残すような争いは、かなり減少する。結果、はるかに愛と調和を示せるそうな社会になってゆく。そのために

 

 

気がついた人から変容する

気がついた人から道を開く

 

 

これを次元上昇などと称しているのだろう。そういう刺激が、いろいろな場所で、いろいろな姿で現れてきている。その「ひとつ」が、ぼくの変化であったり、あなたの変化だったりする。釈迦先輩は「世界は内にある」などと表現していたようだが、まさにひとりひとりの「私と呼べる感覚の変容」が、社会の姿を変えて行きそうだ。

 

 

12/15が実現したのも、2/16が実現したのも、そういった流れから来るもののような気がする。

 

ーーー

 

すべては勘違いから起きている

「私」という感覚の、勘違いから起きている

 

「私」はそもそも、増えも減りもしない

絶対であり、不変なるモノ、

 

そのことを肉体を持つと忘れる

忘れて、自分という存在が減ったり増えたりするものだと

深い場所で思い込んでしまう

 

結果として、

無意識と呼べるような「向こう側の意識」にぶれが生じ

免疫性や治癒力と呼ばれている働きを低下させる

 

それが「病の元」を産みだし、肉体や精神をむしばむ

 

その元を根絶するには「私という感覚」を元に戻す必要が在る

増えることも減ることも無いのが「私」だと取り戻す

 

取り戻すには「そのこと」を意識し続けるだけ

 

私は増えることも減ることも無い

絶対であり、不変なる存在だと 

そういう「感覚」だと

 

ーーー

 

ひとりひとりの中に、これからの世界がどのような様相になるのか?その《元》があります。その《元》に働きかけるのが、ぼくが今、取り組んでいるセッションで在り、12/15や2/16に3人でやろうとしていることだと思っています。お時間が在る方はどうかお越しになって下さい。《元の変容》を体感しましょう!

 

当日受付をすることにしました。申し込みメールに「当日受付でお願いします」と記載して下さい。参加費は当日、受付で納めて下さい。領収書が必要な人は「◎◎で領収書お願いします」とメールに記載して下さい。

 

できることなら、ひとりでも多くの人と「場」を共有したいです。

コミュニケーションの基盤は、決して複雑ではない

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「わたし」という感覚が、どういうものなのか?これを把握することが変容の始まり。この「感覚の変容」なくして、知識や情報を活かすパターンは変わらない。このパターンが運命であり人生となる。

 

 

パターンの基盤となっているモノ、それが「わたし」この感覚なんだ。内宮で出会った「それ」。「それ」が、裏切らないとは減らないこと、と答えたことから始まった変容。この変容は「私という感覚」を、全くの別物にした。

 

 

人生や運命を動かすとは、「このこと」を言うのだとはっきりした。「このこと」を知るのに、いわゆるスピリチュアルな情報や知識は介在しない。「わたし」この感覚を把握する。これは科学でも取り組んでいることだと思う。そういう意味では、哲学と科学と心理学の融合のようなモノだろう。ここに特殊なスピリチュアル用語を介在させる必要はない。

 

 

わたしという感覚に、増えるとか減るとか、そういった現象は起きない。わたしという感覚が勝手に思い込んでいるだけ。なぜ思い込んでしまうのか?肉体と共に在るから。

 

 

肉体と共に在ることで、増えたり減ったりする感覚が当たり前だと思い込んでしまう。そうすることで「自分ではない他者」という感覚が生まれる。この感覚があるから、いわゆるコミュニケーションは産まれる。

 

 

誰かといることで増えると安心して好きになり、

誰かといることで減ると不安になり嫌いになる。

 

 

いわゆる「わたし」という感覚は、なんと単純な仕組みでコミュニケーションを取っているのだろうか。これが「わたしという感覚の変容」を迎えると変化する。誰と居ても増えることも減ることも無い。この感覚に慣れてくると、それが「あふれている」というものだとわかってくる。この感じが出てくると、愛は無償だと腑に落ちるのだろう。

 

 

あふれているとは、減らないということ

不変だということ

それは「循環」だということ

 

 

この循環は完璧なのだろう。この循環を知ると「あるがまま」とか「おまかせ」とか、「決めなくていい」などと、言えるようになる。知識や情報、経験によって「わたし、この感覚」に変容が起きたとき、人生の質に変化が起きるのであって、それらの蓄積が直接変容を起こすとは見えない、だから「忍耐・辛抱というパターン」にはまる。

 

 

なんのために知識や情報を得ようとしているのか?

なんのために経験を積み重ねているのか?

 

 

この問いに対して

 

 

わたしと呼べる感覚に、変容を起こすため

 

 

こう反応する

 

 

この意識に真っ直ぐになれたとき、かなり近道で、人生の質を変えられると思う。

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