わざわざの心配りいたみいります。菜穂さんにはない反応です。全く反応がないところが菜穂さんの魅力ではありますが。
あゆかさんのこの文字には、ぼくを対象としたものを感じます。それが錯覚でも大切な部分だと認識しています。非二元は対象が対象ではなくなる。だから「わたし」が主体の感覚は無視されていると感じるでしょう。それは悪意でもなんでもなく「設定」ですから仕方ないと理解します。
ぼくが使っている主体「全体性」は「自他ではない分離」が残ります。だから対象は対象としてそこに居る中で「わたし」という生涯不完全を続ける主体を離脱します。対象という認識を残して無益な衝突を離脱します。
「わたし」を離脱できれば「全体性」も「非二元」も、どちらでもあとは趣味だと理解しています。菜穂さんは徹底して非二元ですので全体性は幻想であり趣味としての感覚はないみたいです。
菜穂さんは、宇宙人か、人工知能と思えば合点がいきます。または「それ」なんだから仕方ないじゃんで置いておきます。この表現を伝えても感想も何もない気がします。
ぶれないというのは精神力ではなく「脳の設定」ですから、あれらの態度は不思議ではありません。あとは
彼と過ごす甘い時間は
彼女にはどんな時間なのだろう?
ここを聞くしかないのかな…
ちょっと人間性が抵抗します
あゆかさんの返信に人間性を感じました。救われました。非二元は自分も相手も全く存在しない、ニュアンスすら残らない。多くの「わたし」はそこに神=絶対を見る。生涯不完全を続けるしかない「わたし」は、そこに陶酔する。脳の設定が代わるときはそんなものか…
菜穂さんは「非二元のまま」を示す波と捉えました。あゆかさんは「非二元を示す波」に見えました。阿部さんを含めた三人の講演が楽しみになりました。
仕方ないことでしょうが菜穂さんの周りに一神教のようなエネルギーを感じるのです。これも「起きているし起きてない」
全て「完全調和の現れ」ですから危惧する方が不自然です。ただこの不自然が温度を産み人間性を現していると感じています。大切にしたい不自然です。
でも無い方が楽なのかな
v(^_^v)♪おわり
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溝口あゆかさんとのやり取りはこう続いた
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