ノンデュアリティでは「救われる者は存在しない」と表現される。
ただ菜穂さんの周りでも、園長の周りでも「楽しそうにしている人達」が居る。
誰が楽しそうにしているの?と聞けば「誰も居ない」と帰って来る。
確かに「誰も居ない」は真実。
あの壮大な物語を語っている並木さんも「本当は何も無いんだよね。ぜんぶ神が見てる夢だから」と打ち上げで話していた。
本当は何も無い
このことに気づいたのは
「誰?」
新しいノンデュアリティでは「それが心だよ」と答える。
だから菜穂さんの周りも、園長の周りも「ノンデュアリティを楽しんでいる心」がたくさん居る。
たしかに何も無いのが「世界の真実」になる。
ノンデュアリティは、それを知った心が遺した「心を救済するための世界観」になる。
なぜ遺したの?
ありもしない「苦楽」に右往左往する「自分ではない心」のために
遺した。。。
だから「わたし」は受け取った
ノンデュアリティに出会い「誰が」救われたのか?真実を知って「誰が」救われたのか?
この「誰が」の為にブログだってあるし、映画も音楽も料理も景色も、ある。
人生は「あなた」が主人公です。
この「あなた」が「心」です。
心のために「ノンデュアリティ」はある。と、新しいノンデュアリティは表現します。
誰が。。。を無視したノンデュアリティは、なんかつまらない(笑)
それが「真実」なんだけど
