しあわせを探してるのは「誰?」
楽になりたい、成功者になりたい、貧乏は嫌、お金持ちになりたい、優しい人で居たい、尊敬されたい、好かれたい、ハブられたくない、
何かに、何者かに、
なりたがっているのは「誰?」
新しいノンデュアリティでは「このように」応えます。
✫心です✫
新しいノンデュアリティでは「自分という存在」を「三者一体」で捉えます。
中心には「物言わぬ眼」
中間には「高次元意識」
外周には「心」
これ全てが「自分」です
中心は「見ているだけ」が働きになります。評価などしません。ただ「見ているだけ」が「働き」になります。
その周りを回るように「中間と外周」は在ります。
中間は「高次元意識」になります。個人という感覚を理解はしますが「個人は持たない意識」になります。
高次元意識の自分は「意見」は発します。発しますが「願望は持ちません」。
高次元意識の自分は、感情を理解はしても持たない。善悪を判断はしても持たない。
意見を発するだけ。
これがわかる人は「結構ノンデュアリティな人」と「こちら」は判断します(笑)
高次元意識は、それが何かは理解しても「何も持たない意識」になります。
心は違います
明確に「個人」を持ちます。何者かになりたがります。自分であることに「明確な理由」を持ちたがります。
「心」は「個人を明確に持つ」ので「感情や善悪」に敏感です。
自分の意見が明確にあるので「共有できないと」不安定になります。
自分の意見を誰かと共有したい。これは「心の性質」です。
「手放す」という教えがありますが、これは「持つから拘る」から来る「教え」です。
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でもね
心に持つなって
無理なんです
心はなんでも
持つから「心」なんです
なにかあれば持つ
これが「心」です
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なんでもかんでも
あれば持つ
これが「心」
新しいノンデュアリティでは「このこと」を否定しません。
「このこと」を「心」に受け入れさせて「さて、どうする?と始めさせる」教え?になります(笑)
自分の中心が「ただ見ているだけの眼」だと理解している「心:外周の自分」は、「高次元意識:中間の自分」と向き合い生命(時間)を使います。
高次元意識「中間の自分」は常に「完成された大丈夫」を放出しています。
中心を忘れない外周の自分「心」は、中間の自分「高次元意識」が放出している「完成された大丈夫」をキャッチします。
完成された大丈夫をキャッチしながら思考する。つまり「完成された大丈夫」を「持ちながら」思考し判断できる。
なんとかなる、やればできそう、これが持てる心は「自分であること」に「しあわせ」を感じます。
理屈じゃなく「湧いてくる幸せ」を手にします(笑顔)
湧いてくる幸せを手にした「心」は、こちらの体験では「あんまり」こうなりたい、こうじゃなきゃ嫌、これさえあれば、は言いません。
やってみようか
こんなスタンスでやります。新しいノンデュアリティを発言してるのも「やってみようか」でやってます(笑)
○○さんとYouTubeで対話するのも「面白そう」でやってみます。