不思議なんだけど、この「ゆたかに生きるためのノンデュアリティ」のやりとりをするようになってから、
「違和感」がハッキリと、それも素早く出るようになりました。
そして、違和感→疑問→質問(自問含む)→発案・アイデア・更に深い質問とリズミカルに進むようになり、
それを続けていると、自然と視座が高くなり、心は安心?安全?となり、波動も上がっていると感じます。
これまでも、自分のセッションやWSで「違和感」のほうが直感より重要だと話して来ましたが、
この違和感が割と一瞬だったり、ハッキリとしたものでなかったりする事が殆どの人が多い感じでした。
でも、「ゆたかに生きるためのノンデュアリティ」を意識してる訳ではないのですが、
続けて対話してると、この「違和感」がハッキリと明確にわかるようになってることに気がつきました。
面白いです。
ーーーーーーーー
○○さん考察↑
いままでのノンデュアリティでは「私は居ない」を徹底されます。
質問すると、それを感じてるのは誰ですか?なんて突っ込まれます。
ある方のノンデュアリティセミナーで「何が得られますか?」と尋ねたときには取り巻きから失笑されました(笑)
新しいノンデュアリティでは、ノンデュアリティを「自分を楽しむため」に使います。
ゆたかに生きる
これって
自分を楽しむになる
自分を楽しめている人は「私はどうしたらいい?」なんて他者にすがりません。
自己完結が当たり前になるので、他者に助力は求めてもすがりはしない。自分のことは自分で理解できます。
ノンデュアリティから「自分」を捉えれば、自分など仮初めです。あるけどない泡沫です。こだわるものではないとなります。
しかし、しかしなのです
心と認識されている場所は「自分であることに拘ります」
自分がなぜ生まれて来たのか?自分の意味は?自分は何をすればいいのか?
とにかく「自分」に拘ります
もし自分がなくなったら「誰が幸せを感じてるのでしょう」
自分は居ない
なら
幸せも泡沫になり
なにもないのと
同じになります
もったいない。。。
多くのノンデュアリティ提唱者は「自分に拘ることなく、本来なにもないことに目を向けて下さい」なんてアナウンスします。
新しいノンデュアリティでは「本来なにもないのですから」是非!自分であることを大切にして、自分を楽しまれて下さい!になります。
自分を楽しめるなんて
滅多にない「空間」なんです
いまここは
自分です
自分を楽しめないなんて
もったいない