新しいノンデュアリティを「ゆたかに生きるためのノンデュアリティ」と呼んでいた。
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外周、中間、中心、
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心、高次元意識、物言わぬ眼、
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この構図で「在り方」を位置づけている。
自分?
これにこだわるのは「外周=心」だけになる。
「中間=高次元意識」は「自分?」という「感覚」は理解するが、自分であることに拘りはない。
「中心=物言わぬ眼」は「見ているだけの眼」になる。自分など理解の欠片もない(笑)
この「眼」を中心に「中間=高次元意識」と「外周=心」は回っている。
一番外側を回っている「心」だけが「自分?であること」にこだわる。
この位置づけ?在り方?が定着しだしたら「ゆたかに生きるためのノンデュアリティ」と呼んでいることに
違和感が出て来た
自分?が楽しくなるノンデュアリティ
自分?を大切にするノンデュアリティ
自分?が大好きになるノンデュアリティ
ノンデュアリティ以外の呼称は「それぞれでしっくり来る呼称」でいいと思えている。
呼称にこだわるのは「外周=心」だけなので「みなさんの元にある心」に決めさせればいいと
思えている。
ただ「外周=心」「中間=高次元意識」「中心=物言わぬ眼」
この「設定」は
在り方を定着させるので「いじらないこと」を薦めている。
ノンデュアリティの基本は「全てはあるけどないもの」始まりも終わりもない、誰も居ないし、何も起きていない、なんて「無情の世界観」になる。
ここは突き詰めてもつまらない事実と「私の元にある心」は判断した。
私の元にある心は「せっかく自分?と思えるのだから、自分を生きてみる」と発案しました。
自分は居ない
ではなく
自分なんだから
自分を生きる
ここにノンデュアリティというエッセンスを使うことになった。