最近、なぜ石丸さんのことばかりブログに書くのか?普通に見たら全くノンデュアリティではない(笑)
ゆたかに生きるためのノンデュアリティは、ゆたかに生きるためにノンデュアリティを活用している。
ゆたかに生きたがっているのは誰か?それが「心」。
心はゆたかさを求めている。心は貧しさが嫌い。心は、他の心に必要とされたがる。心は、他の心に嫌われると落ち込む。落ち込み過ぎると怒る。
心は本姓として揺れている
絶対に静止しない(笑)
瞑想などをしたときは、止まった気になっているのが「心」だ。静止ってのは無感覚なんだから、わかったら動いてるってこと(笑)
素粒子の素顔を誰も知らないのと同じで「静止した心」は誰も感覚できない(笑)
揺れがゆたかさになったり、貧しさになったり、どちらも「ただの揺れ」でしかない。
心は心、自分は自分、思考は思考、この三つを「別々に認識」すると
心の揺れを俯瞰できる
揺れているのは心で、自分も思考も揺れないから(笑)揺れる心を俯瞰する
自分は根源だし、思考はAIみたいに機械的に動く、ふらふらしてるのは「心」だけなんだ。
ふらふらしてる「心」は、ゆたかさと貧しさを行ったり来たりの「時間」を過ごす。たぶん未来永劫、心は揺れている。
心は、それぞれの、ゆたかさ、貧しさを持っている
あるけどないのが自分だし
あるけどないのが思考だし
あるけどないのが心
その中で
「心」だけがあろうとする
自分や思考は「あるけどない」ことに抵抗がない。心だけが「あろうとする」
だから表現は
「心のため」にある。
夢も希望も、心のためにある。人生も、心のためにある。時間を持つのは「心」だけなんだ。
ボクにセットされている「心」は、新しい価値観を開こうとしている「他の心」が好きみたい。
以前付き合いのあった保江先生や並木さん、はせくらさんに付いたのは「新しい価値観を開こうとしている心」だったからだろう。
いまは自分の心が好き。大好きな表現をたくさんさせてあげたい(笑)
さて石丸さんの選挙を手伝った「選挙のプロ藤川さん」が、初めて体験したと語っている石丸伸二の選挙戦。
ワクワクが止まらない様子。プロなのにボランティアで手伝いに入った。
燃えるのが好きな心たちが
石丸伸二という「心」に集まった