あの世がこの世に出られた結果です
誰かが編み出したものではありません
4年前にカウンセラーの勉強をしました。そのときお世話になった先生が話していたことに対して違和感をもったことを、今回のブログでは見事に表現できたと自画自賛です。
表現は全てエゴです
だから気持ちいいエゴでありたい。基本誰かの顔色なんか気にしたくない。表現はまず自分を気持ちよくさせたい。でないと愛が表現できない。そのうえで誰かが困らないか考慮する。
自分が気持ちいい表現をする
と
目の前を不安にさせない
の
ハイブリッドがぼくの基準
いまのぼくは、これでいいと設定してます。基準は植物脳で行うというのも付け加えましょう
素晴らしい先生が展開させていたカウンセラー学校の内容をコピーしたかのように展開してセミナーを成功させていた人が、外部からのツッコミで衰退していった。たぶん殆どの人が当たり前じゃない常識知らずなのだからと反応するんだろうと推察します。
猿真似で人は感動しない
ぼくの確信です
コピーしてセミナー開いてお金もらって、そんな非常識つぶれるのの当たり前よ!と会場中から流れてくる意識にひどく違和感を感じたことを今でもはっきりと覚えています。その違和感を見事に表現できたと自画自賛のブログです。
http://s.ameblo.jp/doubutunou8888/entry-11843422864.html
瞑想会終了後、ヤンタラジローさんのそばに行った。いつものぼくの高笑い、ぼくはヤンタラジローさんに手を振った。それはそれは不思議なくらい長く振りかえしてくれた。
ウエサクバレーに行ったぼくは自由行動になったとき、なんの変哲もない木の中に入った。幹から枝に、枝から葉に、葉の中の血管に入り懐かしさと共に洗浄された。とても楽になった軽くなった。
葉の中から出たぼくは、虎、龍、麒麟、鷲、がミックスされた大きな狛犬になっていた。お腹には白い少女が寄りかかり寝ていた。その狛犬のひたいにはうねった樹木が埋まっていた。世界樹だろう。
安心ではなく安息
安息がもたらす絶対の安心
ウエサクバレーで少女と過ごした時間は新たな時間を予感させた。
魂に主張はない
愛があるだけ
「が」が国津神化すると、このことが良くわかる。だから誰かの相談にのるときは、こんな感じになる。
あなたが何を言おうと、どんな態度にでようと、わたしが不安になることはない。あなたはいま「が」なのだから、愛を見失うのは仕方がないんだ。魂のわたしが傍に居るよ
これが完璧にできたときは、相談相手は必ず国津神化する。即ち解決してしまうということだ。
問題を抱えているのは「が」です
国津神である魂は愛以外抱えません
「が」がいくら鍛錬しようと「が」であることを変えられません。「が」はダイアモンドになれません。「が」を「が」と認識したときにダイアモンド= 「が」が国津神化します。
相談相手の力になりたいと反応するのは「が」です
(^_^)☆
「が」だと認識して取り組むと愛になります
あの世とこの世は紙一重です❤
「が」が外れた人は神様の選択を濁すことがない。これは神門を開いた人は神様の選択を濁すことがないになるかな(^_^)☆
祝之神事も、神門も、その人のベストパフォーマンスを引き出す。「が」が外れて不安が消える。不安がないときマインドは、絶対の安心を創造する。
神(国津神)と人の関係をこう捉えています。盲導犬と目が見えない主人の関係。盲導犬が国津神、神主たる主人が人。互いが深い深い信頼、絶対の愛によって結ばれたとき、最良のパフォーマンスをする。
この世は地獄
でも国津神の誘導なら天国
人は国津神の主
国津神は人のしもべ
盲目の主人には
信頼することが光となる
神様の診療所
心理学からすると
幼少期に大切な環境は
親が機嫌がいいこと
世の中に対して肯定的であること
そうすると
生きることが肯定から始まるんだって
否定から始まる会話は
執拗に共感を求めてくる
肯定から始まる会話は
求められなくても共感してしまう
今年はドッグイヤー
素直になれば一気に神に繋がる
素直をやめれは
一気に泥沼に引き込まれる
なんと優しい年だろうか
あー今月は大祓
週末はどんだけ飛べるか楽しみだ
蝶が周りに合わせて、羽根もいで
自分を芋虫に見せて生きてたら、直ぐに死んで来世に向かう。
飛べることに気づいたのに
周りに合わせて芋虫やってたら優しくないよな。
絶対飛べるからって見せ続けるのが
優しいってことだろう❤