仙骨の回転でこの実感が産まれると、自分と感じている意識の根底に「ある感覚」が芽生える。「愛が足りている」という「感覚」だ。「愛が足りている」という「感覚」が芽生えると、自分を含めた全体からエネルギーが上昇しているのがわかる。この上昇がわかると更に楽になる。
個人と言う感覚にとって「愛が足りている」という「感覚」は、ほんとうに重要なんだ。発電して世界に撒く!このストーリーを実感した個人は、愛が足りている毎日を創造し続けるだろう。
これから書く内容は「専門知識からの情報」ではあrません。感覚から起きた内容です。いつもより長いです。
いま東京道場では「仙骨」ここがもたらす不思議に取り組んだ稽古をしています。この稽古の準備運動をヨシノが担当することになりました。そこで仙骨に対して「感覚」を向け「見えてきたこと」を書きます。
人間は「自我を構成する脳領域が発達した動物」と言えます.。人間は、自我を構成する脳領域が発達しているために複雑な感情を生み出し、複雑な思考を展開しているようです。その結果「さまざまな意味づけ」を生み出し、その意味付けにより仲間になったり敵になったり、関係性に変化をもたらしている。それらの感覚は「脳内に発生する電気信号」として動いているようです。
この電気信号の中で「自我がストレスを生み出す起点となる電気信号」が見えました。自我を構成する脳領域で何かに取り組もうとしたときに真っ先に起こる電気信号があります。「正しいのか?間違っているのか?」と表現できる電気信号です。多くの人が「この電気信号から思考を展開し判断を決めてゆくストーリー」を生きてしまうことが多いようです。「正しいのか?間違っているのか?」この電気信号を持つことにより、「社会性」という生きるために必要な感覚を育ててしまう。これは人間として育てられれば「当たり前にインプットしてしまう習慣」のようです。
自我が仙骨を意識すると、どうもこの「正しいのか?間違っているのか?」という電気信号がオフになるようです。この電気信号がオフになると、自我を構成する脳領域が愛と呼べる電気信号状態になるようです。
準備運動では仙骨に右左とこきみよく回転を与えることで「自我を構成している脳領域が仙骨を意識できる状態」を創りだします。自我を構成する脳領域で正しいのか?間違っているのか?を気にしてしまう電気信号が起きている場所が左脳のインタープリターモジュールと呼ばれている場所ではないかと視察しました。あくまでも感覚からの推察です。
この場所からこの電気信号が消失すると、自我を構成する脳領域が愛に目覚める。愛に目覚めた脳領域は自我に「無我、無心」のような状態を味あわせる。無我・無心という状態は「迷いが無い」「躊躇が無い」「思ってないのに身体が動いてた、言葉になっていた」という不思議な感覚を自我にもたらすようです。自我を構成する脳領域がこの状態になると稽古に対する集中力が個人が意図してではなく全体に現れているのを感じます。
一般の人に活用してもらうため簡単に書くとこうなります
あなたが常に仙骨を意識する生活を続けると、間違ったらどうしよう。。。というような不安や怖れを生み出す電気信号がオフになるので、愛に満ちた思考や判断、言動、行動が「自動で現れる」ようになります。
どのように自我に仙骨を意識させるか?このとき「仙骨をこきみよく右に左に回転させる」という感覚はかなり有用です。仙骨を意識していると、どうも自我はのびのび存在できるようです。自我にとって不要なものは、自我を必要以上に不安にさせる電気信号のようです。自我を構成する脳領域からこれらの電気信号を解除するのに、「仙骨」という場所はかなり有用な場所のようです。
30日の輪の風ワークでは、このあたりの説明と「肉眼の奥にあるもう一つの眼の活用法」を伝達できればと思っています。「不要な電気信号をオフにする」この感覚は自我にとって、かなり画期的な感覚のようです。
おわり
愛が十分に使える自我。自我もまた電気信号の結果である。電気信号。ここに自我は無い。あるのは性質。どういう性質かと言えばAという電気信号が自我とつながると、自我は十分に愛を使える。Bという電気信号が自我とつながると、自我は愛を使いにくくなる。こういう性質。自我に愛を使わせてあげよう。仙骨を意識する自我は愛を使える。そういう電気信号になるからだ。人生は概念が決めているわけではない。人生は電気信号が決めている。電気信号は、自我が仙骨を意識しているか?否か?で決まっている。なんというシンプルな仕組みだろうか。
仙骨を意識し続けているとわかることがある
自我はリーダーではない
自我は他の感情や感覚に対して
あたかも自分がリーダーであるかのように行動する
そういう習性にあるようだ
この習性が「ゲーム」かもしれない
わたしの悲しみ、わたしの苦しみ、わたしの喜び、
わたしの病気、わたしの運命、
わたしが他の感覚を所有している状態を「エゴ」と呼ぶ
そういう電気信号が起きているようだ
だから、エゴという現実を体験する
わたしと悲しみ、わたしと苦しみ、わたしと喜び、
わたしと病気、わたしと運命、
このように他の感覚とわたしが並列であるとき
電気信号は「愛」という状態になっている
この基盤となる並列が「わたしと仙骨」
この感覚にあるみたいだ
現実は
わたしを他の感覚のリーダーにしてしまうのか?
他の感覚と並列に置いておくのか?
こんなシンプルなことで決まっているようだ
冠光寺眞法と仙骨
福田君とのコラボ 3月12日17:30~20:00 清澄白川
2月27日18:00~船堀 (株)Amour主催ワーク
自我と他の感覚が並列になったとき起きる奇跡はとても優しい。自我が感覚のリーダーになろうとしている状態を「エゴ」と呼ぶのだろう。自我は自我でしかない。ここから始まる解釈は優しい時間を創造する。
わたしの痛み。自我が痛みに対してリーダーになろうとしたとき「許せない」とか「もうダメだ」とか排他的な解釈を始める。言語による解釈は言語化された時点でその方向性を決めている。この部分の感覚は自我にとってとても有用だ。
わたしと痛み。痛みとわたしが並列に並ぶとき I am What i am が起こる。ここから始まる解釈は奇跡と呼べる解釈になる。自我はリーダーじゃない。これを理解している「わたし」を体験したとき、自我はその状態に天使や神を見たのかもしれない。ここに居ながら別の世界に居るような感覚。これは機能だとわかる。天使や神のような感覚になり生きることは才能ではないと思う。
2月27日(株)Amour主催ワーク「わたしってなあに?運命とわたし」
3月12日 福田と吉野の仙骨会議 清澄白川
3月21日 主催協力:Hand to Heart Projectワーク 目黒
仙骨に自由を与える。その中で見えてきたこと。
私たちが「わたし」と認識している自我は感情の所有者ではない。また行為者でもない。「わたし」が所有者や行為者から解放されたときに起こるリラックスは可能性を秘めている。
わたしが所有できるものは
わたしという感覚だけ
わたしは行為者にはなれない
行為者の同乗者になれるだけ
ここから起こる可能性を検証する。「施術・コミュニケーション・体調管理・メンタル・運」これらにどのような影響を与えて行くのか検証する。次回道場での準備体操に「仙骨ぴょこぴょこ歩き」を加えて見ることにする。これは自然に笑えてしまう効果がある。ワークショップでも試してみよう。
2月27日(株)Amour主催ワーク「わたしってなあに?運命とわたし」
3月13日 大久保の歯科医院セミナールーム
3月12日 福田と吉野の仙骨会議 清澄白川
3月21日 主催協力:Hand to Heart Projectワーク 目黒
自我を所有者から解放する。自我はそのままにしておくと感情や病を所有します。自分が悲しんでいる、自分が病気になった、自分の運命、このように自我には所有する習慣が身についてしまいました。自我を所有者から解放する。自我は自我という感覚を司っているだけで、他の感覚の所有者ではないのです。自分と悲しみが同時に存在してるんだ。自分と病が同時に存在しているんだ。自分と運命が同時に存在してるんだ。このように所有者から自我を解放したときに起こる可能性を体験してみてください。
2月20日 12:30~14:30 2時間枠の輪の風ワーク
2月27日(株)Amour主催ワーク「わたしってなあに?運命とわたし」
3月13日 大久保の橋本歯科医院セミナールーム
3月12日 福田と吉野の仙骨会議 清澄白川
3月21日 主催協力:Hand to Heart Projectワーク 目黒
ネガティブ
これは解釈の下地です。解釈の下地は三つあります。ネガティブとポジティブとリラックスです。悲しみが起こると、自我は当たり前のように悲しみを所有します。「わたしは悲しい。。。」と自分が悲しんでいると思い込んでしまう。このように自我が悲しみを自分のモノだと所有した状態をネガティブと呼びます。感情や様々な感覚を自我が所有したときにネガティブは起きます。
このネガティブが起こると同時に産まれるのがポジティブです。悲しみを所有した自我はネガティブに飲み込まれたくないのでポジティブという対抗手段を創りだします。ポジティブはネガティブの弟のような存在です。たしかにポジティブはネガティブに対抗はできます。打ち負かすこともできます。しかしネガティブを消去することはできません。ですからポジティブである限りネガティブの陰に怯え続けることになるのです。根底に不安があったから強くなれた。これがポジティブの成功した姿ですね。
リラックス
自我が本来の姿であるときに起こる現象です。自我は「わたし」という感覚だけを所有している器官です。ですから「わたしは悲しい。。。」は自我の誤作動になります。「わたし」と「悲しい」が同時に存在した。わたしの隣に悲しみが現れた。これが正常な感覚になります。この感覚であればリラックスの状態で悲しみを体験することになります。
自我は観察者であり体験者
感情の所有者ではありません
そういう意味では、心の所有者でもない。わたしと心は別の存在だとわかります。
わたしと心。。。これがリラックスです
冠光寺眞法と仙骨
2月20日 12:30~14:30 2時間枠の輪の風ワークを開催します
参加費は5500円 お釣りのないように
自我を所有者から解放する リラックスで体験する人生
理解したい方はどうぞ
わたしは傷ついた
これは「わたしの心は傷ついた」ということ。心を自分の所有物だと認識している自我は、心の痛みを自分の痛みだと主張します。これが所有者です。所有者は傷つけた相手を許しません。
心が傷ついたみたいだね
これが観察者です。心を自分のモノだと認識していない自我は、心が持った痛みを優しく見つめます。内観という状態ですね。観察者は傷つけた相手を否定しません。相手の問題は相手の問題であり、自分の側に存在する心が受けた痛みと相手の存在を混同しません。
許せないのは
自我が所有者のままだからです
運命に問題はありません。運命に対して所有者であることが問題なんです。所有者はジャッジをやめられません。納得する理由を探すまでジャッジをやめません。所有者は自分の思い通りになるまで探求を続けます。観察者である自我は「運命さん、今日はどんな調子?」みたいなスタンスなのでジャッジしません。運命さんを眺めます。このときの波動がどんな感じか?模索してみてください。
2月20日 12:30~14:30 2時間枠の輪の風ワーク 5500円
2月27日(株)Amour主催ワーク「わたしってなあに?運命とわたし」
3月13日 大久保の橋本歯科医院セミナールーム
3月12日 福田と吉野の仙骨会議 清澄白川
3月21日 主催協力:Hand to Heart Projectワーク 目黒
わたしと心は別物です。もし心がわたしそのものなら、わたしは心を心とは認識しません。
心を心と認識している「わたし=自我」が、心を自分そのものだと思い込んでいる状態を「所有者」と呼びます。所有者はネガティブをやめられません。リラックスもどきを体験したとき、所有者は運が良かったと喜びます。
心は「わたし」が感情や感覚を体験するためのツールであり、わたしそのものではない。心があるからコミュニケーションを体験できる。このとき自我が心に向けて発するエネルギーを「感謝」と呼びます。
観察者は宇宙人みたいですね。
2月20日 12:30~14:30 2時間枠の輪の風ワーク 5500円
2月27日(株)Amour主催ワーク「わたしってなあに?運命とわたし」
3月13日 大久保の橋本歯科医院セミナールーム
3月12日 福田と吉野の仙骨会議 清澄白川
3月21日 主催協力:Hand to Heart Projectワーク 目黒