「わたし」という感覚が、どういうものなのか?これを把握することが変容の始まり。この「感覚の変容」なくして、知識や情報を活かすパターンは変わらない。このパターンが運命であり人生となる。
パターンの基盤となっているモノ、それが「わたし」この感覚なんだ。内宮で出会った「それ」。「それ」が、裏切らないとは減らないこと、と答えたことから始まった変容。この変容は「私という感覚」を、全くの別物にした。
人生や運命を動かすとは、「このこと」を言うのだとはっきりした。「このこと」を知るのに、いわゆるスピリチュアルな情報や知識は介在しない。「わたし」この感覚を把握する。これは科学でも取り組んでいることだと思う。そういう意味では、哲学と科学と心理学の融合のようなモノだろう。ここに特殊なスピリチュアル用語を介在させる必要はない。
わたしという感覚に、増えるとか減るとか、そういった現象は起きない。わたしという感覚が勝手に思い込んでいるだけ。なぜ思い込んでしまうのか?肉体と共に在るから。
肉体と共に在ることで、増えたり減ったりする感覚が当たり前だと思い込んでしまう。そうすることで「自分ではない他者」という感覚が生まれる。この感覚があるから、いわゆるコミュニケーションは産まれる。
誰かといることで増えると安心して好きになり、
誰かといることで減ると不安になり嫌いになる。
いわゆる「わたし」という感覚は、なんと単純な仕組みでコミュニケーションを取っているのだろうか。これが「わたしという感覚の変容」を迎えると変化する。誰と居ても増えることも減ることも無い。この感覚に慣れてくると、それが「あふれている」というものだとわかってくる。この感じが出てくると、愛は無償だと腑に落ちるのだろう。
あふれているとは、減らないということ
不変だということ
それは「循環」だということ
この循環は完璧なのだろう。この循環を知ると「あるがまま」とか「おまかせ」とか、「決めなくていい」などと、言えるようになる。知識や情報、経験によって「わたし、この感覚」に変容が起きたとき、人生の質に変化が起きるのであって、それらの蓄積が直接変容を起こすとは見えない、だから「忍耐・辛抱というパターン」にはまる。
なんのために知識や情報を得ようとしているのか?
なんのために経験を積み重ねているのか?
この問いに対して
わたしと呼べる感覚に、変容を起こすため
こう反応する
この意識に真っ直ぐになれたとき、かなり近道で、人生の質を変えられると思う。