今日は新月 インド帰りのトシキさんのキルタンに行ってきた。相変わらずというか、また一段と空間になっていたトシキさん。
自分 これをどう感じているか?
ここがそのまま「解釈」になっている。現実とは「それに対する解釈の仕方」と言える。解釈は「自分と感じている部分」を変化させない限り変わらない。言葉の表現やニュアンスが少し変化するだけで、自分という位置が変化しなければ「同じ解釈」になる。
自分と感じている部分は「物体」にある。もし物体を構成している「原子」に自分を感じていたら迷うはずがない。原子が「あなたは嫌い」なんて発想するはずがない。何かを好きになったり嫌いになったりするのは「物体」の部分に「自分を感じている」からだろう。
わかりやすくいえば
白いキャンパスと絵具と絵の関係だ
物体は絵、原子は絵具、キャンパスは「ぬしさま」
絵は「あなたと私」を表現する場所。だからそれぞれに個性が在る。しかし絵は絵具で描かれている。青と赤は衝突しない融合するだけ。たぶん「好みじゃない」なんて他の色を拒絶する赤なんて存在しない。原子とは一定の法則によってくっついたり離れたりするものだ。
それでも絵具には違いが在る。しかし絵具はキャンパスが無ければ絵になれない。キャンパスに違いはない「同じ」だ。
「ぬしさま」が居るから
原子(霊)は物体(個人)を描けるんだよ
それがぼくだしあなたです
「私」という意識はたぶん「絵にしかない」そう見えます。その「私」が絵具やキャンパスを意識できると「仮有:けう」になる。「絵」の部分は分離が在って不自由を体験する。理解しあえたり、衝突したり、不自由を体験する。
私は居ないと言える「私」は、もう不自由じゃないだろうな。。。
だって絵の部分には存在しなくなるんだもの
絵の部分にしか「不自由という解釈」はないのだもの
今日書いたことが見えた人は不自由からの離脱
もうすぐだと思うよ^^
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自分 これをどう感じているのか?
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