さて京都出張からも帰還して、さらに「顔と骨」の関係が見えてきました。まさに顔と骨は「煩悩と悟り」の関係になるのです。
相手や自分をはっきりと分離している場所が「顔」です。正確には「顔が出している振動数」です。モノマネが上手な人は「その人の顔が出している振動数」をキャッチしてそれをまねます。人は「どうみえているか?」ではなく「どう感じたか?」で判断しています。これを固有振動数と呼びます。
相手や自分を「顔で認識」していると「煩悩という次元」に「自我を置くこと」になります。煩悩という次元は「比較することで快感や不快感を味わう」こういう設定になっています。否定や批判は、比較することで産まれた不快感が創りだしています。また比較することで生まれた快感は「幸福だったことへの執着」を創りだします。
相手や自分から「顔」を外してみて下さい
顔を外すとはのっぺらぼうに見るということではありません。この顔の下に骨が在るよね。こう認識し続ければ、気がつけば顔を外しています。相手や自分を認識するのに「顔という認識が中心に在る限り、煩悩中心の感覚を外すことはできません」。
葬儀を終えて骨だけにになった故人を「仏様になったね」と当たり前のように認識します。骨には「悟りの次元に存在する自我」が居るのです。ですから誰かを認識するときに「骨が在って顔が在る」と認識し直すだけで、その人との間に煩悩が発生しにくくなります。
顔が出している振動数を「相手や自分」と認識する限り「煩悩から解釈してしまう人生」を続けることになります。しかし「顔の下には骨が在る」このように骨が出している振動数を相手や自分と認識し直すと「悟りの世界に居る自分」がリードする人生になります。悟りの世界に居る自分がリードする人生とは「煩悩をエンジョイできる人生」ということです。
悟りだけでは幸福は味の薄いモノになります。大日如来のように浮き沈みがなくなります。表現が平らになります。煩悩と悟りがコラボしているから「人間」は楽しいのです。煩悩とは「比較することで生まれる快と不快の世界」です。ここには真の安息は存在しません。しかし比較が全くなくなれば浮き沈みがなくなる。変化しなくなるということです。
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煩悩と悟り 二軸を生きる
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