自我を「心」と混同しているから「苦楽」に左右されてしまう。
心は苦楽を感じるもの
ノンデュアリティの良いところは、苦楽をダイレクトに、苦楽と認識しなくなるところ
嫌なことから逃げ腰になるとかではなく、心が抱える苦楽から、いい意味で距離がとれるのがノンデュアリティになる
私が居るとか居ないとか、そんな話はどうでもよくて
私はいま
どうしているか?
これを大切にできるのがノンデュアリティだと見ている。
苦楽に一喜一憂することが「あなたの幸せ」ならノンデュアリティなど必要ない。
苦楽に一喜一憂することなく、穏やかな自分で余生を過ごしたいならノンデュアリティはかなり有用なアイテムになる。
過去の嫌な出来事も、現在の嫌な出来事も、未来への不安も、根っこから捉え方を変化させられるのがノンデュアリティだ。
ノンデュアリティは
自我、この設定を根っこから
変化させてくれる
あなたが苦楽に左右されるのは「心を自分」と設定しているからだ。
心は心、自分は自分
思考は風のようなもの
このシンプルな設定ができると、苦楽に左右される「心」を俯瞰している場所に「自我」が移る。
このとき自我はノンデュアリティを理解する。色即是空空即是色を理解する。
自我は必要最小限の理解のみを持つようになる。こうなりたい、これは嫌、これを解決する、みたいな意識を持たなくなる。
心はこういうのが嫌いで、こういうのが好きなんだなと「今まで自分と思い込んでんいた心」をパートナーとして扱えるようになる。
苦楽に一喜一憂する人間を優しく慈しむ高次元意識。この高次元意識が「自我」になる。
肉体があるから「地上にある高次元意識」は、心の引力に引きずられることもある。ただノンデュアリティを会得すると
引きずられても離脱できる安心感を自我が得る。ので、ノンデュアリティは人間に有用なアイテムなんだ。
自我を高次元意識の位置に定着できるアイテムがノンデュアリティになる。この発言は他の提唱者からは異論が出そう(笑)
ただ異論が出るノンデュアリティって、ノンデュアリティじゃないんだよね(笑顔)
