最近はもっぱら「心をお世話する」ことが日常になっている。
心は解釈したり納得したり表現したりを常としている。心は寝るときがあるのだろうか?と疑問すら浮かぶ(笑)
思考も「心の姿」になる
心を自分だと思いこんでいたときは、思考と心は別物だと理解していた。思考とハートと表現してもいい(笑)両者は違うものだと理解していた。
思考も心の姿なら
ハートも心の姿
いまはこう理解している
魂だって心の姿だと言える(笑)
素粒子が山や海にもなれれば、あなたや私にもなれるように、心も思考やハート、魂にもなれる。
素粒子が「私は山を造った」と言わないように、私も「私は心を作った」とは言わない(笑)
何が言いたいか?というと
素粒子にも、私にも、
所有がない。。。ということ
心は所有したがるもの
私には所有がない
わかる?
私には所有がないの
心だけが所有したがるの
ノンデュアリティは
ここに気がつける情報?かな(笑)
ノンデュアリティを観た心は「所有をやめる」だからといって家や財産を手放すって話じゃないよ(笑)
所有という感覚が違和感になるんだ
所有が違和感になった心は穏やかだよ(笑)
