しかし主体が主観に影響し、わたしたちが現実と呼んでいる「感じ方や考え方」を創造していることは事実です。何度かの大和田さんとの対話で、わたしは大和田さんに神を観ました。この場合の神とは、大和田さんが「それ」と指しているものです。保江先生は「完全調和」、お釈迦さんは「空」と呼んでいたものです。
それがそこに居る!
この衝撃たるや小躍りしたほどです
そして19日の質疑応答になります。講演後、黒斎さんから「あなたの発言は状況を無視している」とおしかりを受けましたが、まあ確かに。。。と思います。
が(^^)
この手の講演内容でわたしが質疑応答でした内容は、講演会を著しく停止させるものではないと判断しました。ですのでお叱りではなく、提案という形で示されるのが妥当ではないかと提案させていただきます。
あの日私はお金を払い参加している観客の一人です。ヤジや罵声ではなく「講演会で起きている質疑応答の温度差に、率直な反応を示したに過ぎない」わたしなりの疑問です。表現力のチープさはあったにせよ、お叱りを受けるものではないと判断しています。
黒斎君はお金受け取る方なので
ぼくの発言内容は許容されるものと思われます
さて本題に入ります
大和田さんの一貫した発言「そのあなたが居ないのです」
大和田さんは「主体も主観も、ありません」と応えました
「いまも、ここもない」とも言いました
ぼくは会場で「そりぁそうだよね!大和田さんの主体は全体性なんだから」と頷いてました、。全体性が主体になっている主観なんだから「いまも、ここも、あるわけがない」、当然の反応だと理解しました。
「いま」と「ここ」は
「わたしは全体性である」これが主体にあるとき産まれます
菜穂さんは「全体性です」が主体
阿部さんや黒斎さんは「わたしは全体性です」が主体
ここの違いでしょう(^^)
さて結論です
主体があなたの現実です
これが人間における絶対法則です
大和田菜穂さんという「現れ」は、脳機能や肌機能を働かせている主体が「全体性=ライフ」になった結果です。ほんとうに「わたし」が消えてしまったのです。ですから大和田さ菜穂さん現象は「わたし」が主体から消えない主観にとっては奇跡としか見えないかもしれません。
しかし「わたし」を主体から外して眺めれば「当たり前の現象」だと理解できました。あとは自分が
「その現れ」を
「起こしたいのか?」と判断するだけです
ぼくは自他交流を面白いと感覚しているので「密かい使うことはあっても」公には使いません。だって全体性が主体になると「相手がこちらに変容しないと全く話がかみ合わない」という現れが起きるからです。しかしこの内容も全体性が主体の大和田菜穂さんからすれば
この解釈も幻です
ただそういう解釈が起きているだけで
あなたが解釈したものではありません
になりそうですね(^^)V
それでいいんです。だって主体が全体性なんだから、そうとしか写らないんだもの。SF映画を実体験したような感覚です。貴重な体験です。後日フェイスブックでメッセージしたときには「温度」が帰ってきました。「温度を絵文字から感じました」。そこでまたワクワクしました。
ひょっとすると、ひょうっとする、
SF映画のフィナーレは感動巨編になるやもしれない
そしてそのフィナーレは
新しい人類文化を構築する前振りになる
面白そう^^おわり!
下野さんとの神保町遊び
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