清水浦安さんが12/15にも語っていたことを補足して語ってみよう。この補足は、アマテラスに抱かれたワンドロップの声だ。
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自分を人間と思っている限り、そこでの体験は何も変わらない。そこは葛藤を体験する場所だからだ。葛藤を体験するとは「成功したとしても、次の失敗を気にしなければならない」そういう場所だということだ。
ひとときの悦に酔いしれ、次の失敗をもみ消す。そういう場所が「そこ」であろう。そこを「地球引力圏意識」と名付けてもいい。そこは巧みに上下を作る。たとえば「プライド」を美化する。
誰かの行いを裁いたり、ほめたり、ここには「プライドの美学と呼べる葛藤」がある。自分が、正義とか真実とか定めているモノと「似ている」と感じれば褒める。違うと感じれば敬遠する。
*その裏は同じものなのに*
12/15、愛宕さんの口から放たれた言葉がある。神様はなんでも善きことと受け取る。だから御神霊がついていると、物事をなんでも善きこととして捉えると。
これを真に受ける地球引力圏意識の人間は、捉え方だ、考え方だと、「そこ」にとどまったまま「概念だけを入れ替える」。この概念だけの入れ替えは、本質を何も変化させていない。
バイブレーションと呼ばれている「概念前の状態」、ここを移動させなければ、概念は形のみを変化させただけで、根底に横たわる「次への不安」を、「次の失敗への怖れ」を、消せてはいない。これが「ここ」で繰り返される「いったりきたり」の正体だ。
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概念の根底にあるモノ
これは、自我の根底にあるモノとなる
ここから「次への不安」が消えたらどうなるのか?
想像してはくれまいか
成功した直後から湧き出てくる
次への自動設定のように起こる「失敗への怖れ」を
もし、消すことができたなら
想像してはくれまいか
極力薄い味、記憶に残らない味に、
変化させることができたなら
その不安は、その怖れは、誰かへの優しさになるのだよ
あなたの「生きている」ということへのスタンスは
「あなた」と感じている場所そのものなのだよ
概念と呼べる形は、結果に過ぎないのだよ
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このフェイスブックなるものを見ていても、そのことに触れている感覚は希有である。その殆どが、平和を望み、戦争の悲劇を悲しみ、人類の行く末を案じているのに、「ここ」には眼もくれない。
成功のあとに味わえる「ひとときの悦」に酔いしれ、ワンドロップを宿した自分という存在への忘却を、さらに加速させている。それが定めであればよい。しかしそれは定めにあらずと見えている。
少なくともWATASIには、WATASITATIには、そう見える
神の涙を見たことがあるか?
いや、ないであろう
声なき者、概念無き者、と「そこ」で見られている者たちは、神の涙を見たワンドロップを宿している。その者たちを「そこ」は、障害者と呼んでいる。
声なき者の声を聞け、概念無き者のこころを見よ、
それでも響かぬのなら致し方なかろう
それでも祈ろう。。。「そこたち」のため
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BOKUは聞いたから始めるよ
声なき者の声を届ける!
概念無き者の代弁者となる!
概念を言葉にできないモノの声をひろう!
それが誕生日12/30ってことだね
たぶんこのくらいの時間だね
志は、極めて優しい春風のように流れるね
力瘤なんて 無縁だね(^^)V
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