因果はめぐるって
「温度はめぐる」って理解するとつかみやすい
ぼくの体感では
「あったかい」という感覚を味わっているとき
思考は批判を行わない
なぜ批判しないのか?
意識が自我を抜けているからだろう
他者が自分ということが腑に落ちているときは
怒るだろうか?ぼくには疑問なのだ
相手が自分の鬱積した潜在意識を表現する
これは理解できる
たしかに自我を抜けているところに自分があれば
この役になりきれるだろう
そして役になりきっただけなのだから
そこに聡明なものが残るだけで
基本として相手がどう感じたかを理解する必要はない
そもそもそこには相手はいないのだから
別の要素から構成されている自分が居るだけなのだから
自我を抜ければこの感覚が理解できる
いまあなたにぶちまけるシグナルが来たから
そのままあなたにぶちまけた
これはあなたの声なのよ
自我はこれにちょっと待ったをかけるだろうが
自我を抜けた場所に居る自分に人間らしい配慮は無いので
躊躇することなく放出できるだろう
ここに愛を見つめるものは、ここに躊躇なくつとめるだろうし
ここに愛を見つめなければ自身の温度を感知する
それが同時に相手の温度として結ばれてゆくと見ている
選択の違いか、それだけなのか
それとも味わっている階層のちがいなのか