真実は真実として横においておこう。生きていることにおいて「個人がいかに安定し安心するか?」が大切だと見えてきた。安心した個人は優しい時間を創造する。愛が発電きると実感できた個人は、理屈ではない安心を持つようになる。理屈ではない安心を持てた個人は確実に優しくなる。
真実は個人など存在せず、全体がうたかたの幻想として現れているにすぎないのが現実、そのひとつの現れが個人である、ひとつの現れと表現することもずれているが。。。と示す。だから親子とか運命の人とか、そういった関係性は幻想であり真実ではない。しかしその幻想こそが「生きている」という意味とも言える。
仙骨を回転させると愛が発電できる
愛は発電できるものなんだ!
これが実感できた個人は本当に安心する。愛の発電不足が感情や判断の不安定を起こしていた。愛の発電は簡単なエクササイズで起こる。これは真実からすればただの幻想であり無意味と言える。しかし自分として生きていることそのものが無意味だと真実は語るのだから、そこはいったん横においておいていいだろう。
愛の発電機「仙骨」を使い自分を満足させる
愛が安定して発電できると言う実感を自分に持たせる
この幻想は、幻想である個人にとって非常に有意義である。それこそが優しい時間を創造するかなりパワフルな一助となる。