釈迦は「色即是空 空即是色」と世界を現した
全ては空です。空以外の何物も存在しません。空以外ないのだから何も無いも同じだ。本当は何も無いのに、あたかも様々に有るかのように存在している。「完璧な空」と「完璧に見えないが完璧な色」は同一のモノ。なんともなんとも無限を感じる。
イエスは「みな父の子、同じだ」と人間を現した
これは人間という機能はその設定において「みな同じ」である。父はみな同じに創ってある。だから使えばいいんだよ。と言っていた気がする。
大和田菜穂さん現象は
全ての人間に備わっている機能
「わたしは。。。」この感覚をオフにすれば発動する機能だと理解した。理解して実践したところ「今」も「ここ」も感覚から消えた。菜穂さんらしき存在からも「わたしは。。。」は出てこない。「菜穂は。。。」と使っている。もしくは
主語が無い
これ「守護が無い」と変換できる
守護が要らない、だって「守護そのものなんだもの」
幻想ではあるが大和田菜穂さん現象を解析するのに「ハイヤーセルフとしての自分=分離で衝突しない高次元意識としての自分」は使い勝手がいい。幻想なんだけど分離の問題が有るとするなら「不毛な衝突」だ。愛しているのに苦しめ合う、見たくもない現象だ。この見たくもないは「わたしは。。。」が創りだしているんだけどね。
大和田菜穂さんに見える「それ」に対しての違和感は「温度」だ、返答のときの「ぬくもり」に差があると言ってもいい。しかし温度も幻想なので「海と波」で捉えれば「海は波をコントロールしていない」ので温度差が出るのは普通。当然の結果だ。
それがわかっていても違和感を持つ
ぼくという「それ」には「わたし」が居るからだろう
※この無意味は許容されないかな^^
本の末尾に掲載されている顔写真は「まさにAIが表情を創った顔」に見える。「個が無い」と表情筋はああいう動きをするしかないのか?静寂が顔になるとああなるのか?
だったら「ぼくというそれ」は「分離で衝突しない高次元意識の自分」という幻想を選択する、いまは。「天使長ルシファー遊び」を選択する。高次元意識の面白いもまた幻想だから、「それ」の面白いとは異質だと推察できる。
神は人間に選択の自由を与えた
神に選択の自由は無い
「わたし」には選択の自由がある
「神=それ」に選択の自由は無い
今度は本当の質問です
菜穂さんらしき「それ」さま
「それ」さまにとって「ぬくもり」とはなんですか?
おきているだけです。。。に、なるのかな~
違う答えを期待しちゃうw(^^)w
「ぼくというそれ」が参ったする答えが欲しい!
場違いな表現なら削除して下さい
いつもありがとうございます
遊べますw(^^)w