表現することのすべては「たとえ」になります。ぼくなりの「たとえ」が明確になったので書くことにしました。
イメージして下さい
自分とは1000ピースでできているパズルです。そのうち999のピースは絶対秩序そのものとして存在しています。絶対秩序を見失わないピースです。それが「999」です。のこった「1」このピースは絶対秩序でありながら「絶対秩序を見失う設定」がされています。見失うのが「1」の役目です。
「999」を神我と呼ぶなら「1」は自我です。揺らいでいるのは1000分の1だけだということです。そういう意味では幸せを望んでいるのも、不幸を怖れているのも1000分の1だけだと言うことになります。その「1」すら絶対秩序の存在で「そうインプットされているだけ」ということです。
このビジョンを観たときノンデュアリティで示されている「ライフ=生命」を肌に感じられました。冠光寺眞法で示されている愛魂は、ぼくの中では「ライフ」になります。自我は衝突します、神我は衝突しません。神我は「ただある」としか表現できない。共感は安定した自我「1」が発しているものです。感謝もそうなります。
「999」には味がありませんが「1」にはある。「999」と対話で来ている「1」は旨みを探せるけど、対話できていない「1」は苦みにばかり目が向く。不安や怖れ、これからどうなる、なんて感覚は「999」と対話できていない「1」の特徴です。「999」と対話する「1」になる。これを「1」は覚醒と呼ぶのでしょう。
「999」と対話している「1」
これがまさに「愛魂」だと理解しました
セッションや治療行為とは「999同士の対話を設定するもの」であり、「1」は999同士の対話を観戦している状態にしておくもの。施術者がこのスタンスであれば、受け手の「1」もその流れに入ってくる。結果として絶対秩序を見失わない「1」に復活するので回復する。冠光寺眞法による施術とは「このような状態」だろうとビジョンしました。
あなたの不安は1000分の1の自分が感じているものです。1000分の999のあなたは絶対秩序「愛」を見失わずにそこに居ます。999は達観しているので変えようとか、変わろうとか、しません。「1」が変えようとか、変わろう、成長しよう、としています。「1」が望んでいることはなんでしょうか?多くの場合は「社会性を伴った幸福」ではないでしょうか。
社会性を伴った幸福とは
「対面した相手と分かち合える幸福感」だと
ぼくの「1」は語りました
満足したいのは「1」です。999は「1」を満足させる対話相手です。999と対話できる「1」は揺らぎの中でも「自他を愛することの素晴らしさ」を表現することでしょう。ごく稀にヒトラーのような「極端な破壊を伝搬させる存在」になるようです。