日曜日は
ノンデュアリティ 私は居ない
この表現者のひとり「溝口あゆかさん」の
御茶会に顔を出しました
25名くらい居たのかな
では正直な感想を書きます
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確かに私は居ないのです
これは本当のことです
しかし
何かを望んだり、答えを求めたりすることは
人間にとってごく自然なことでしょ?
と
反応してしまう人には
私は居ない
この感覚は
全くちんぷんかんぷんな話になると思います
ボクの解釈では
ノンデュアリティという表現は
自分の想いはあると認識してしまう「分離意識状態」と
私は居ないの「根源:絶対の静寂」
このふたつしか存在していない
と、提唱しているように観えました
ふたつと言っても、二つではないのです
感情に飲みこまれてしまう状態の「私」を分離意識と言うのですが
この「私」も
「根源:絶対の静寂」ここの表現のひとつにすぎないので
ふたつではなく「ひとつ」しかないのです
「私」という状態は
それが感情から自立した高次元意識状態でも
ノンデュアリティという学問では
居ないのです
文字だけだとめんどくさい話です(^^)V
まとめます
ノンデュアリティでは
感情をささっと切り替えられない「私:分離意識」と
「根源:絶対の静寂」
このふたつの登場人物だけで
「真理」を物語ります
ですから
会場に居た人が良い感じで
「分離意識」を抜けだす雰囲気になっても
いきなり「私は居ない」にフォーカスを移されるので
混乱してしまう
こういった空気が常に繰り返されていると
観えました
では
統合ではどのように組み立てて「真理」を物語るのか?
次のページで
解説します